Nigeria #1 Cross boader

道中で聞いてきたナイジェリアの評判は、なぜか悪いものばかりだった。

「役人の腐敗レベルがヤバい」
「賄賂の要求がハンパない」
「ナイジェリア人は押しが強い」
「イスラム過激派『ボコ・ハラム』(西洋の教育は罪という意味、、過激!!)が北部で頻発にテロ活動をしている」

などなど。なので、いつも以上に気を引き締めて向かう。

最短ルートでナイジェリアへ入ると通過するLagos(ラゴス)という都市は、なにやら「アフリカ三大凶悪都市」の一つというウワサもある。他ニつはケニアのナイロビと南アフリカのヨハネスブルク、またラゴスに代わってにタンザニアのダルエスサラームがノミネートされることも。鵜呑みにはしていないが、用事が無ければ寄らない方が無難だろう。
また、ポリスが舌なめずりしながら待っている賄賂街道となるのは最も交通量が多いメインルートのはずなので、マイナーっぽい青い点を付けた道から国境を越えるとにした。しかしこのルート上には以前武装強盗が出没していた地帯があり、やはり油断はできない。

15 March ベナン出発。この日から蛍光ベストを着用する。

この先検問の数が増え、突破する難易度も上がることを見据えて、見た目の印象を少しでも明るくして捕まるリスクを減らす作戦だ。まぁこれでもイカツい感じだけど、、、さすがにブルキナファソの時のように投獄はされないとしても、いちいち怪しまれて停められて質問(フランス語だから理解できない)されるのは時間がもったいない。

この国境では、おもしろいことが起こった。知らぬ間にベナンを出国していて、ナイジェリアに入っていたのだ!てっきりベナンの出国手続きをしていると思ったら、係員が
「ナイジェリアの電話番号を書け」
と言ってきた。
「まだSIMカード持ってませんよ、ベナンにいるんだから」
とコイツ何言っちゃってんの〜って感じで答えたら、
「違う、ここはナイジェリアだぞ」

と返された。

、、、こんな簡単に出れちゃう国は初めてだった笑 引き返してベナンの出国イミグレーションを発見、スタンプをもらう。屋台みたいな建物に係員が二人いるだけ、きっと屋台と間違えてスルーしたんだな!

対するナイジェリアの入国イミグレーションにはやたら役人が多く、そしてみんな暇そうだ。バイクの持ち込み手続き含めて15人ぐらいとやりとりし、何人も「金くれ」と言ってきて、うち一人は個室に連れこもうとしてきたが、いずれも何度も断れば相手から引き下がるレベルで全て回避できた。せめて『〇〇税を支払う必要がある』とか、嘘でも言ってくれば騙される可能性があるかもしれないが、みんな飲み食いするジェスチャーの後に「金くれ」と言ってくるから単純でおもしろかった笑

全ての工程をクリアして、あとはこのバーを越えれば終わりだー!いざ出発!!とクラッチレバーを握った直後、レバーにかかるテンションがスッと消えて軽くなった、、、それはつまり、クラッチワイヤーが切れてしまった。

賄賂攻撃を防いだので、これ以上言ってこないうちに一秒でも早くこの場を去りたかったのに、ここで切れるのか〜。。たまに注油もしていたけどやはり元放置車両、予想以上に傷んでいたようだ。とりあえず今日到着を予定している町まで、このまま走れないか策を講じてみるも、できそうにない。ここに長居したくはないけど仕方がない、切れた時用に持ってきた予備ワイヤーと交換だ。まぁ、強盗が出るかもゾーンで切れなくて良かったとしよう!

イミグレの建物からほんのちょっとだけ離れ、作業に入る。

「ここを使うな、使うなら金払え」とか言ってこないか気にしたけど平気で、その場所を見張っているポリスやローカルたちは温かく見守ってくれて、写真もポリスが撮ってくれた。また、作業が終わった後は汚れた俺の手を見て、子供が石鹸と水を持ってきてくれた。

なんだ〜、いい国じゃんナイジェリア!

Keep on Rolling.

Burkina Faso’s Big Memories #3

この国での一番の出来事は、何と言っても3月2日のテロ事件の現場至近にいた&軍に捕まり投獄されたことだ。その詳細は事件翌日に投稿したが(記事へのリンク)、あの時はまだ未解決だったから載せる気になれなかった写真を、いま公開します、、!

軍隊の基地で30人ぐらいに囲まれて写真を撮られ、誰かにウェブアップされていた。しかし、後にこの写真の存在が俺を助けてくれることになる。左に立つ超コワイ顔をしたスーツ男によって後ろ手に手錠をはめられ、かつ手錠に付いたチェーンを握られている。自由な旅人が一転して不自由な囚人へ、、我ながらすごく困った顔してる。拘束から24時間後に無事釈放されたが、実はこの再び国境警察に怪しまれ、拘束された。。

軍に捕まっている間、釈放されたら「こいつはテロリストじゃないよ」って旨の書類を作ってもらおうと考えていたが、いざ開放されたら早く帰りたい一心で依頼するのを忘れてしまった。3月4日の朝にワガドゥグを出発した後に思い出し、少し後悔するが途中複数あった検問では捕まることなく、進み続ける。16時頃ベナン国境20kmぐらい手前のNadiagouという町へ着いた。思い出深いブルキナともいよいよお別れか〜と思い、嬉しいようなさみしいような気分になっていた。

最初は通り過ぎてしまおうとしたポリスチェックで、停止を求められる。(アフリカはやたらと検問が多く、停まるとパスポートチェックやくだらない質問をされ時間を失い、お金ほしさに書類にケチを付けて罰金を取ろうとしてくることもあるので、以前からスルーできそうな所は停まらず通り過ぎてきた)何やらここがイミグレーションオフィスだというので、パスポートやバイクの登録証を所長らしき人物に渡すが、なかなか返してくれない。そして、「出国スタンプはここには無くてPama(20kmぐらい手前で通過した町)にあるから、戻らなくてはならない」と言われる。しかもバイクは置いてポリスの車に乗れと。「出国スタンプが国境からそんなに離れたところにあるなんて変だ、信じられない。ここがフロンティアのポリスチェックならここで押してくれるはずだ。」と抵抗し続けていると、次第に彼らの態度が強くなり、5人に囲まれて最後は「Stand up!!!」と命令される始末。こうなったら従うしかないが、バイクと荷物を置き去りにするのは嫌なのでせめてバイクで行かせてくれないか?と伝えるも、聞き入れてもらえない。まぁ、場所的に盗まれることはないはず。

前に三人乗れる車の真ん中に座わらされる。逃げられないように。この時点で、「あぁ疑われてる、これから取り調べが待っているな」と確信する。俺が既に一度捕まっている情報を彼らは持っていないし、伝達システムがちゃんとしている国とは思えない。その確認がとれるのはいつになるだろうか、今日中に終わるだろうか?連れて行かれている間、そんなことを考えていた。

銃を持つ二人の兵士が監視する部屋に入る。ここのボスらしき人物が現れる、明らかに敵意の視線を向けている。英語が話せる若者と他二人のポリスも含め、6対1での取り調べが始まった。軍隊の時よりこっちの方が精神的にキツかった、あたかも俺がテロリストと決めつけたように質問されるから。中でも、俺の顔写真が不鮮明なブルキナファソのビザを見て「これは偽造ビザだ」と言われた時はまいった。。いやいや俺のせいじゃなくて、おたくの大使館のプリンターがショボいんだよ!目詰まりしてるんだよ!ヘッドクリーニングしなさい!末端クラスのポリスが相手だと、質問と理解のレベルが低くて説得するのに苦労した。旅の目的は?と聞かれて「ただ世界をバイクで走りたいだけで、完全にプライベートなチャレンジだ」と答えるも、こういう自己実現のための旅をしたことがない彼らには理解できない。「金を使って苦労して、何の利益にもならなくて、それが目的だなんておかしい。他にあるんだろ?」そう疑われた。

負ける訳にはいかない。何もかもを疑ってくる姿勢にいい加減ムカつき、途中から怒鳴るような大声で回答していた。これでいい、正しいのはこちらなんだから強く出るのもこちらだ。と気張り続けるも、拘束から二時間ほどが経過し疲れてきていた。その時、スマホを手に新たなポリスが入ってきた。その画面を見てビビったが、次の瞬間にはチャンス!に変わった。画面には軍隊に捕まっている俺が映っていたのだ。げ!こんな写真が出回ってるのかよ!?まるで犯人じゃん!と最初は焦ったが、これぞ俺が無罪放免だったまぎれもない証拠だ!「ほら言った通りだろ!俺が本当にテロリストだったら今ここに来れてない!」この写真のおかげで、その後尋問の圧力は弱まっていった。

その後30分ほどで尋問は終わるが、軍と連絡がついて俺の無罪が完全に認められるまでは軟禁され、3時間後にようやく「お前は犯人じゃない」と言い渡された。時刻は21時半、バイクもここには無いし動けないので結局ここで寝ることに。ポリスと一緒にテレビでサッカーを見て、今回は牢屋じゃなくて青空ベッドを借りて寝た。

猿も登場!

ちなみに軍隊に捕まってる時もそうだったが、軟禁下の俺は飲食物を買うことができ、「ライスが食べたいし、コーラと水が飲みたいな〜」と言ってお金を渡すと軍人や警察がおつかいに行ってくれ、この点では彼らを使いっぱしることができて何だか偉くなったような気分だった笑 しかもちゃんと細かいお釣りまで返してくれるから、こんなとこはマジメなんだな〜と思ったりもした。

そして翌朝。国境近くのポリスチェックへと送ってもらい、無事バイクと再会し、昨日は「ここには無い」と言われた出国スタンプを押してもらった。さすがにこれ以上捕まりたくないので、「怪しい者ではありません」証明を出してくれ!と今度こそお願いするも、「心配するな、国境を越えてBenin(ベナン)に入ったら誰もあんたを捕まえないよ」と言われ、結局もらえずにこの国を出た。

Beninにて昼を食べようと店に入ったら、ポリスが食べている!こんなにドキッとするなんて、まるで悪い事した野郎みたいだな、、してないのに、、。ちょっと嫌だったが、ここで店を出たら逆に怪しまれるので座った。様子を伺うが、どうやら俺を何とも思っていないようだ!よっしゃこれで晴れて自由の身だー!!!と、ここで飲んだビールの味は格別だった、、!

Keep on Rolling.

Senegal⇒Mali,think about peace

14 February 偶然にも、『INTERCONTINENTAL RALLY』なるものの期間と開催国と俺の旅がモロかぶりしてた結果、もらったパッチをライディングジャケットに縫い付ける。

ベースがシンプルだからよく目立つ。選手じゃないけど、この4カ国(Spain、Morocco、Mauritania、Senegal)を走破してるから付けてもいいと。ちょい恥ずかしいけど超うれしい!

15 February SenegalからMaliへ。国境はとても静かでポリスもまったりとしていた。バイクの出国手続き = カルネへのサイン&スタンプを忘れられて、

俺「これやってください!」

ポ「あっそうだね〜、やらないと」

とノホホンな感じだった。

無事Maliに入国。税関の建物は国境からしばらく先にあり、わかりづらかった上、窓ガラスが割れて砂ぼこりが溜まり廃墟のようだった。。カルネを持って中に入るとデスクに座る職員と女性が何やら激しく言い合っている。「終わるまで時間かかるかもな〜」と不安に思っていると、デスクの横の地べたマットレス(しかもちゃんとしたベッド用の分厚くてイイやつ!)を敷いて寝ていた男がムクッと起き上がり、「ヘイッ、カモンッ!」と言ってサクッとカルネを書いてくれて、終わるとまた寝た。コイツできるヤツだな!

これで入国手続きは終わり、いざ出発!と思うが、体に力が入らない。内陸へと進むにつれて気温は上がり続け35℃ぐらい、バイクの装備を着込んでるから超暑くて汗かきまくり、軽い熱中症になっているようだ。水を飲みながら休むがいまいち変わらない。塩分を摂ろうと持っていた缶詰めのオイルサーディンを食らい、少し良くなったので出発した。

バイクに乗ると不思議と不調はどこかに消える。どうやら走りへの集中力の方が勝るようだ。

Maliを走ってまず目に入ってきたのが、豊かな緑と美しい山並みだった。

北部ではイスラム過激派が毎日戦闘をしていて、南部なら大丈夫と思いつつも警戒していた心が、この綺麗な景色と出会って和む。外務省はとにかくヤバいから会いに行くな!と止めるマリちゃんだけど、会ってみると美しいな!笑

この日は夜になってKitaという町に着き泊まった。

16 February 次の国Burkina Fasoのビザとりのため、大使館がある首都のBamakoを目指す。道中にて。

途中からスピードメーターの数字が暴れ出し、180kmとか0kmとかおかしな数字にピョンピョン変わるのを繰り返した後、0kmを表示したまま変わらなくなった。スピードメーターは使えなくても構わないが、連動する走行距離カウンター(オドメーターとトリップメーター)も動かなくなってしまうので、それはちと困る。日々と通算の何km走ったという記録が取れなくなるし、給油してから何km走ったかがわからないと次の給油タイミングが計りづらい。しかし今日は金曜日、大使館には午前中に着いてビザを申請をしないと、月曜日まで申請おあずけになって無駄に待つはめになるため修理せず、そのまま先を急ぐ。

間に合って受付に着くと、ふくよかな女性が気持ちよさげに寝ていて、呼びかけても起きない。デカい声でもう一回!起きた笑 フランス語の申請書だがこの人が親切にも書いてくれたのでラクチン、シングルエントリー90日間(こんなに長くいらないんだけどこれがミニマム)48000CFA(約9600円)、月曜日の13時にもらえることに。

宿を探して走る中、長さ4180kmで9カ国を流れる大河、ニジェール川を渡った。この橋の上でバイク専用車線が初登場し、最初はわからずルール無用な連中が好き勝手に歩道を走っていると思った笑 バイク専用車線はこの国以降その後もよく見かけた。

安宿が少ないBamakoでは貴重な安宿、『Sleeping Camel』を見つけて泊まる。ドミトリー5000CFA(約1000円)、自分のテントを貼って外で寝れば4000CFA(約800円)になった。Barもあって冷えたビールが飲める、毎日めちゃくちゃ暑いからやたらにウマい!

宿にて、United Nations = 国連の職員で、ここ以北はテロリストが暴れている最前線の町Moptiに翌日から行くドイツ人のSebastian(セボ)と仲良くなった。

旅話をしながら一緒に飲み、Mopti近くのDjenneという町にある『泥のモスク』を見に行きたいけど治安的に行けるか?と聞いてみると、国連のネットワークを駆使して調べてくれた。結果、テロリストの先行部隊はバイクを好んで使うので、奪われて彼らの手に渡るのを阻止するため、途中のポリスチェックから先は通行許可が降りず帰らされるとのことだった。また、バスや車でなら行くことはできるが、2週間前にBurkina Faso側から来たバスが不運にも地雷を踏んで30人ぐらい亡くなっているらしい。というわけで何やらリスクが高そうなので、『泥のモスク』は行かないことにする。

また、巨大なキャンピングトラックで世界中を夫婦で旅するオーストラリア人のAllenとも親しくなった。トラックのアートはアボリジニースタイルで、奥さんが描いたという。

先述のスピードメーターの動作不良の原因は、配線の一本がチェーンにヒットして切れていた。

俺の1995年製TT250Rは、この時代のオフ車初のフロントスプロケットからセンサーでスピードを拾うデジタルピックアップで、トルコでスプロケットを交換した時の配線の取り回しが正しくなく、ジワジワとチェーン寄りに動いてここで切れたようだ。切れた配線をつなぐツールは今手元に無い。Allenに持ってないか相談してみると、両端を鋭角にカットした短い針金を用意し、切れた部分に差し込んでつないでくれた!知らないテクニックを一つ学ぶ。

あと、この宿に住み着いていたチビウサギとも仲良くなった笑

20 February 前日にBurkina Fasoのビザを受け取って、この日Bamakoを出発してSikassoという町に一泊、翌21にBurkina Fasoへと入った。

Maliの治安について、滞在したKita〜Bamako〜Sikassoに限っての話にはなるが、他のアフリカの町と何ら変わらない平和な時間が流れていた。暴動や争い事は見かけず、危険な目にも遭わなかった。夜のBamakoを歩いた時はすごく暗くて警戒したが、何事もなかった。

やはり、どこの国でも人々は争い事を望まず、平和に暮らしたいのだ。普通と違う特殊な環境で育った者だけが、好戦的になって自分の利益のために他人を襲う。「治安が悪い」と称される国でも、そこに暮らす市民は我々と変わらぬ善悪の心を持ち、他人に危害を加えるのは悪い事という常識の中で生きている。「日本は安全で海外は危ない」そんなことはない、どの国だって良い人もいて悪い人もいる。エリアとタイミングによってリスクは変わるから、それを見極めて選択すればいい。一方的にレッテルを貼り、真実を見ようとしない方がよっぽど危険で、争いを生むのは常にそんな心の持ち主のはずだ。

Keep on Rolling.

How is Mauritania?

**基本的に宿のwifiでブログをアップしてますが、西アフリカを進むに従ってどんどん通信速度が遅くなり、今は自分が貼り付けた写真も表示されないレベルに。。というわけで、情けないことにどの写真をどこに入れたらいいかわからなくなってしまった状態なので、今回はいつものように写真を文章に織り交ぜず、最後にまとめて載っけます。字面が多くてスンマセンッ!!見れるようになったら、然るべき位置に差し込んだり、キャプション付けたりしたいと思います。***

03 February 何一つ知らない国Mauritania(モーリタニア)に入り、変な言い方だけど「おおっ!いよいよマジなアフリカが始まった!!」と感じた。それほど印象が変わった。最初の町Nouadhibou(ヌアディブ)の景色を見て頭に浮かんだ言葉は、カオス!道端に溢れかえる人々、失礼だがボロボロに見える建物たち、灯りが無く暗い町、そこら中に落ちているゴミとその臭い、それをあさるヤギたち、馬やロバもそこら中にたくさん、信号もロータリーも無い大きな交差点、などなどなど。車も人も自分のことしか頭に無いような動きをするので、いつも以上に気を引き締めながら砂だらけの町を走る。

人々は素朴で穏やか、いい意味でマイペースだ。やたらと話しかけてきたり、からかってきたり、押し売りしてくる人はおらず、食事や買い物でぼったくられることもなく、危険な目にあったり不快な思いをすることはなかった。見た目は荒れてる町だけど。

ただ、ほとんどがディーゼル車でバイクなど滅多に見ない国ゆえ、ガソリンの入手が難しい。ちなみにフランス語圏のアフリカ諸国では、ガソリンはEssence(エッセンス)、ディーゼルはGas-oil(ガスオイル)と呼ぶ。ウズベキスタン以来のサブタンク(といってもただのペットボトルたち)も準備し、ここで満タンにして600km近く無給油でも走れる状態にした。

04 February 首都のNouakchott(ヌアクショット)へ。泊まった宿Auberge Menataは屋上にモンゴルのゲルより大きなテントがあり、部屋よりは安く泊まれる(一泊3,000MRO=約900円)のでそこへ入ると、教師をリタイヤした旅好きな斎藤さんと、イギリスからSUZUKIのDR350でやって来たライダーのRichardに出会った。翌日には斎藤さんと入れ替わりで、自分より一つ年下の雄大(ゆうだい)がやってきた。まさかモーリタニアでこんなに共通点のある人達に会えるとは思わなかった!

05 February 次の国Senegal(ビザ不要)の次に行く国、Maliの大使館に午前中に行って申請すると午後には発行してくれて7,500MRO=約2,300円、Senegalで取るより約半額とお得だった!

06 February 同じくセネガルへ向かうRichardと一緒に、国境へと向かった。メインロードが走るRosso国境は金が欲しい人々がわんさか群がってくることで悪評高いので、マイナーなDiama国境の方を目指す。道中の景色や町や道はアフリカが存分に感じられて、すごく楽しかった!

RossoとDiamaの分岐点を過ぎた後の、国境まで約150kmほどのポリスチェックで、旅の経験値が試される出来事が起こった。

この時点で17時前だった。ポリスは、「国境は18時で閉まるから今日は間に合わない、途中で泊まって明日行け」と言う。それは納得した。そしてポリスの親友で、モハメド・アリ(笑)と名乗る男が、「2km先にキャンプできる場所がある。安全でタダだ、案内しよう」と言ってきて、ポリスもそれがベストだという。俺はポリスも含めて簡単には信用しないが、この先国境まで町らしい町は無くキャンプするのは確定なので、とりあえず場所を見て判断することにした。

そこは道路から少し入った広い空き地で、良くも悪くも無い印象。アリは、「疲れてるし腹も減ってるだろう。今日は家でキャメルミート = ラクダ肉のスペシャル·クスクス(クスクスは西アフリカの伝統料理)を作ってるから、食べたかったらここに持ってこようか?」と言い、Richardは大喜び!しかし依然として警戒している俺は断った。さらに、「セネガルから先のバイクの保険には加入しているのか?もし無いならセネガルには入れないし、国境では保険は買えないぞ?」と言ってきた。セネガルから先のアフリカ各国を広くカバーする『ブラウンカード』なる保険があることは知っていたので、それかと尋ねるとそうだと言う。しかし国境で買えないのはおかしい。じゃあどこで買えるんだと聞くと、アリが保険を発行できるという。金額は、1ヶ月間有効が75ユーロで、3ヶ月間有効が150ユーロ。ヨーロッパのグリーンカードよりは安いが、アフリカの保険にしては高い気がする。初対面のコイツの話をいきなり信用できないし、国境の手前で向こうから近づいてきて手を差し伸べてくる輩は金目当てが多いという経験則があったから、俺は保険を買わなかった。Richardはアリの話=「ここで保険を買わないで国境へ行ってもセネガルには入れないから、結局またここへ保険を買いに帰ってくることになって、往復300km無駄に走ることになるんだよ!?」を信じて1ヶ月分買った。手持ちが無かったため、明日銀行へ金を下ろすためだけに往復80kmほど違う方向へ走ることになるのだが、それでも300kmの無駄走りをするよりは全然マシという本人の判断だった。

しかし!俺が「ヤツは怪しい!」という見解を崩さなかったことにRichardも感化され、気が変わり、アリから逃げることにした笑 当初のキャンプ予定地から100kmほど進んだ小さな村でRichardのバイクがバッテリーあがりでストップ、仕方なくここで寝る場所を探していると、保険証券を持って追いかけてきたアリに捕まった笑 ヤツが怖い顔して「お前の友達はどこにいる!?」って来た時は、あちゃ〜って感じだった。。

そして翌朝。俺は保険は国境で買えるはず、しかももっと安く!と信じて国境へ直行、Richardはまずアリに払う金を下ろしに国境とは違う方向にある銀行へ。少しだけ同じ道を一緒に走り、ちょうど俺たちが別れるポイントにポリスチェックがあった。

ポ「どこへ行くんだ?」

俺「Diama国境だ」

R「銀行だ」

そして俺たちがそれぞれ違う方向へ走り出すと、ポリスはすぐに誰かに電話で報告を入れた。たぶんアリだろう。不当と思われる金額の支払いから逃げるため、Richardも一緒にDiamaへ行こうとしても、ポリスは彼を通さなかっただろう。事実、俺が単独で通過した次のポリスチェックでの会話は、こうだった。

ポ「お前の友達はどこだ?」

俺「銀行へ行っている」

ポ「OK」

そして。国境にてあっさりと保険は買えて、しかも金額は3ヶ月で40ユーロだった!(アリの金額は1ヶ月が75ユーロ)

幾多の国境を越える中で培った経験値が、アリのボッタクリから俺を守ったのだ。嬉しかった!

次に小さな建物に入り出国スタンプをもらう。係員が処理手続き費として4700MRO(約¥1400)を請求、払わないとパスポートが戻ってこないので仕方なく払う。しかしどうも引っかかる。外に出て先ほど保険を買った男を探して伝えると、やはり必要のないお金だった!よし、取り返す!建物に戻る、俺の血相を見た係員が目を丸めている。そしてあえて一言も発せず、代わりに本気で怒っている表情と、金返せこの野郎!!というジェスチャーのみ彼にぶっつけた。このサイレント作戦がうまく成功し、お金は戻ってきた!

セネガル入国時にかかった費用は下記の通り。

①セネガル川を渡る橋の通行料 : 4000CFA(約¥800)

②自身の入国手続き : 2500CFA(約¥500)

③バイクの持ち込み手続き : 6500CFA(約¥1300)

うち、レシートをもらったのは①だけだったが、②も③もモーリタニア側で保険男が教えてくれた金額の通りだったので、おそらく賄賂ではないと考えて支払った。アフリカの国境越えはこの先も何かしら起こりそうだが、そのぶんクリア後の達成感が強そうだ!

Keep on Rolling.

I was in jail on 2nd March night..!

※2月に走った各国の旅日記よりも先に、3月2日ブルキナファソで起きたテロの日の出来事を書きます。犠牲になった方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

02 March ミッションカトリックと呼ばれる教会の中にある宿に泊まっていたが、そこからわずか1kmしか離れていない陸軍本部が爆破されていた。どおりで建物が揺れたわけだった。

また、フランス大使館も襲われたらしい。バイクの格好(プロテクターベスト、厚手のズボン、ミリタリーブーツ)のまんま方が安全だぜ!と、銃声も落ち着いてから様子を確認しに外に出る。しかしこの格好が不運だった。

毎日40℃になる町をこんな格好で歩いているヤツは、他に一人もいない。しかも外国人だから目立つ。テロリストと疑われ、駆けつけた軍隊に取り囲まれて捕まってしまった。。

後ろ手に手錠をかけられて、車の後部座席に投げ込まれ、横たわる俺の顔と腰の上に一人ずつ、銃を持った軍人が座る。ミリタリーキャンプに到着すると同時に30人ぐらいに囲まれて写真を撮られる。嬉しくない。。

後ろ手に手錠をかけられたまま、幹部らしき8人の円陣の中心にひざまずかされた。銃を持った兵士が周りを取り囲んでいる。俺がどんなヤツかなんて当然誰一人として知らないし、全員が疑っている。無実をしっかりと伝えなければヤバい。焦ったり興奮したら、かえって相手を刺激してしまうだろう。今の状況を頭では理解しつつ、それが感情と結びつかないようそれ以上頭を使うのは止めた。つまり、まだ見ぬ恐怖を自身で生み出して、その幻想と戦わないようにして、ドキドキしたりキョドったりせず堂々と落ち着く。このフランス語圏でどこまで説明が通じるかが心配だったが、幸い英語が話せる人も二人いて、とりあえずテロリストじゃなくてツーリストなんだ!日本からバイクで走ってきたからこんな気合いの入った格好してるんだ!ってことは伝わったらしく、骨にゴリゴリと当たって痛かった手錠を解いてくれた。

次に個室に入り、一時間半ほど細かく尋問を受けた。入国目的や渡航履歴、家族のこと、テロの前後の行動履歴などなど。これが終わると何となく俺は「シロ」だとわかってくれたのか、建物の入り口にある待ち合い室のようなエリアで座っているように指示された。いわゆる軟禁状態で、依然パスポートや携帯やカメラなどの所持品は押収されたままだ。この時点で14時頃、遅くとも夕食までには帰れるだろうなどと考えていた。

その後、俺と同じように手錠をくらった容疑者の連行は続くが、取り調べ室に入った後はどこかへ消えていき、ここで待っているのは俺一人。疑問に思いつつも、きっと俺はすぐに開放されるヤツなんだ!とか勝手に思っていた。18時頃やってきた、上半身裸で裸足の男を最後に、連行者は止まった。しばらくすると男が何やらわめきだし、その後聞こえるビシッ!バシッ!と音と共に悲鳴を上げる!ムチ打ちだった。取り調べ官になぜ彼だけ?と尋ねると、「ヤツが今回のテロリストだ!」と答えた。

しかし、その後も依然として俺は釈放されない。22時になって取調官に、今日はここに泊まるんだと言われた。今朝出発するつもりで荷物を載せたままバイクを宿に停めてきたから心配だ、帰りたいと言ったものの当然許可されず、仕方なく泊まることに。そしてベッドルームといって案内されたのは、まさかの今日捕まった全員が入ってる10m×3mほどの牢屋だった!ヤツらはここに収容されていたのか、、先客の12人(全員アフリカ人)の中にはなんと、最後にムチ打ちを食らった「裸野郎」も手錠を付けたまま居る!その瞬間、俺もまだ容疑者リストから抜けていないことに気がついた。

マジかよ、、と思いながら部屋の隅に行き、冷たい床に横たわる。トイレはなく、ペットボトルが何本も置いてある。少したつと老人が近づいてきて、服のようなものを床にひいてくれようとした。しかし下手に受け取って後で見返りを求められたらイヤなので、断わった。すると次に「裸野郎」が何やら言い寄ってきたので、シカトし続けて追い払った。するとまた最初の老人がきて、俺の横に蚊取り線香を置いてくれた!あれっ?この人マジでいい人かも??てか何で蚊取り線香持ってんの!?と疑問に思ったが、次はゴザを持ってきてくれたので敷いてもらい、そのおかげで結構ぐっすり眠らせてもらった。鉄格子の隙間から見えた満月が綺麗だったなぁ〜、、

同じ囚人ならばあんな余裕とホスピタリティあるわけがない。この牢屋の寮母さん的な立場なのかも??おじいちゃんだけど。翌朝早く、牢屋の前のドアが開く音がして「よっしゃ!出られるか!?」と期待したが、新たに若い男が投げ込まれてきて計14人に増えた。この男もショーパンツのみを身に着け、背中にはムチ打ちを受けた傷があった。男はおそらく「話をさせろ!!」的なことを叫びながら牢屋のドアを何十発も殴り、軍人を呼ぼうと怒り狂っていた。

ムチ打ちされたのならば、軍はこの「裸野郎2号」も犯人と断定したのか?しかし理不尽な扱いに対して怒っているように見えるし、最初の「裸野郎1号」と知り合いな素振りは一切見られなかった。それは彼らの演技かもしれないが、これほどの規模の事件なら当然複数犯だろう。また人は見た目ではわからないが、「1号」はテロリストとは思い難い、気弱そうな痩せた青年だ。やがて、俺を除いた13人の中に果たして本当に「真犯人」はいるのか?もしかしたら全員俺と同じく冤罪かも??とか考えてしまった。それほど、皆どこにでもいる人のように見えたのは事実だ。。

8時頃に俺だけ牢屋から昨日の待ち合い室に移動させてもらった時、今度こそ帰れる!!と確信した。そして拘束されてから丸24時間がたった正午12時、晴れて自由の身となれた。すごく身近に起きた今回のテロ事件の真犯人が裁かれること、また自分と同じ冤罪者が必ずや釈放されること、そして改めて犠牲者の方々へのご冥福を心から祈りたい。